1854年にアメリカの軍人ペリーが来日し、3月31日に江戸幕府と日米和親条約を結んだことで、とりあえず「鎖国」は終わった。実際には、1858年に日米修好通商条約が結ばれ、アメリカとの貿易を認めたことで鎖国は完全に終わり、日本は開国した。
ペリーは大役を果たすと下田港へ移動し、そこで停泊していると、4月24日に吉田松陰がやって来た。
長州藩の軍学者の家に生まれた吉田松陰、通称・吉田 寅次郎(よしだ とらじろう)は「我が名は寅、寅は虎に属す。虎の特は猛なり」と書いているように、自分の激しい気性を自覚していたらしい。
彼には天性の知性があり、11歳のときには藩主・毛利慶親(もうり たかちか)の前で堂々と講義(御前講義)をおこない、その素晴らしい内容が称賛を集めた。周囲の大人たちはこの子には特別な才能があると認め、対西洋艦隊を想定した演習では13歳の松陰に長州軍の指揮をさせた。「天才兵法家、幕末の日本に転生する」というアニメでありそうな展開で、神童にもほどがある。
松陰はアヘン戦争(1840〜42年)で清がイギリスに負けたことを知り、大きな衝撃を受け、「国防」を強く意識するようになる。そして長崎ではオランダ船に乗り、西洋文明の先進性を肌で感じ取った。
そんな彼が江戸で佐久間象山に学んでいた時、浦賀に現れた黒船を見て度肝を抜かれ、自分の目で西洋世界を見て知識を見聞を広めたいと思い立つ。善はハリーアップ。彼は弟子と2人で下田港にあった小船を盗んで黒船艦隊の一隻に近づいて乗船し、ペリーに「たとへば君 ガサッと落葉 すくふやうに 私をさらって 行ってはくれぬか」ではなくて、「ぜひ私たちをアメリカへ連れて行ってほしい。未知の世界を見てみたいのだ!」と懇願したが(セリフは想像)、ペリーには「無理」と断られてしまった。
ペリーとしては、今は大事な時で、幕府とのトラブルを避ける必要があったから、この判断は当然。
密航に失敗した松陰らは、小舟を盗んだことがばれるだろうと考え、下田奉行所に自首した。
ペリーは松陰の訴えを拒否したが、死を覚悟して船に乗り込んできた彼に好印象を持ち、こんな感想を残している。
「2人の教養ある日本人の旺盛な知識欲を示すものとして、とても興味深かった。日本人は間違いなく探究心のある国民であり、道徳的、知的能力を広げる機会をよろこんで受け入れるだろう」
ペリーは松陰の行動を日本人の特質と見なし、日本人は抑えきれないほど強い好奇心を持っていると考えた。といっても、吉田松陰ほどの知性と行動力を持った日本人は超例外だが。
彼は安政の大獄で捕まると、老中を暗殺するつもりだったことを自分から告白し、29歳で処刑された。「虎の特は猛なり」の気性から、秘密にしておくことができなかったらしい。
ペリーが称賛した松陰の旺盛な知識欲や探究心は、松下村塾で高杉晋作や伊藤博文らに大きな影響を与え、彼らが新しい日本を作る原動力となった。
ちなみに、自分を「僕」、相手を「君」と呼ぶ習慣は松下村塾で生まれたと言われる。

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