【運命の一戦】インドシナ戦争と太平洋戦争のターニング・ポイント

人生には、「あの時、アレがあったことでその後が大きく変わった」というターニング・ポイントがある。人の場合、価値観が大きく変わるのは、特別な人と出会ったことがきっかけになることが多い。
歴史でターニング・ポイントとなるものは「戦争」だ。国と国との戦いは、どっちが勝っても負けても影響が大きく、その前後で政治や社会、経済が大きく変化する。
そして、ひとつの戦争を細かく見てみると、アレに勝ったことで流れが変わり、最終的な勝利につながったという運命の一戦がある。
今回は「日本 vs アメリカ」、それと「ベトナム vs フランス」の2つの戦争でターニング・ポイントとなった歴史的な戦いを紹介しよう。

きょう5月7日は、1954年にベトナム軍とフランス軍が戦った「ディエンビエンフーの戦い」があった日。
その話をする前に、その一戦までの経緯を簡単に説明しよう。
1945年8月15日、日本がアメリカに降伏すると、ベトナムでの支配力を失い、ホーチミンをトップとするベトナム独立同盟会(ベトミン)が立ち上がる。彼らは臨時政府を作り、9月2日にベトナム民主共和国の独立宣言をした。
しかし、日本軍が来る前にベトナムを植民地にしていたフランスが戻ってきて、再び支配しようとした。それをベトナム側が「おかえりなさいませ、ご主人さま」と迎えるわけがなく、第一次インドシナ戦争が始まった。

 

自転車を使って戦闘に必要な物資を運んでいる。ベトナム軍のこの「人民パワー」にフランス軍は負けた。

 

ベトナム軍のゲリラ戦法などによって、フランスでは多くの若い兵士が手足を失ったり、精神に障害を負ったりして帰国し、フランス国民はその様子を見て現実を知り、大きなショックを受けた。一方、ベトナム軍の兵士は戦闘経験が少なく、十分な訓練も受けていなかったため、1950年代初めはどっちの軍も引かず、一進一退の状態が続いた。

1953年状況は変わる。
この年の11月、フランス軍がベトナム北西部のディエンビエンフーを占領し、そこを拠点にして武器や兵力を集めることにした。ディエンビエンフーには、旧日本軍の飛行場跡があり、空輸での補給や航空基地として最適だったから。
それを知ったベトナム軍は準備を整え、3月13日から本格的な攻撃を開始し、両軍合わせて約1万人の戦死者を出す激闘を繰り広げた結果、5月7日に勝利を手にした。

この重要な戦いを制したベトナム軍はその後も攻勢を続け、フランス軍は反対に撤退を重ね、7月に敗北して第一次インドシナ戦争は終わった。
これでフランスは完全に撤退し、ベトナムは独立国となったが、今度はアメリカがやって来て、1955年から第二次インドシナ戦争、いわゆるベトナム戦争が始まる。

 

ベトナム戦争では、ベトナム軍は狭い地下道を張りめぐらせ、こんなふうに兵士がいきなり現れ、米軍を驚かせた。

 

米軍との戦闘が終わった後、ガダルカナル島の海岸にはおびただしい数の日本兵の死体があった。

 

第一次インドシナ戦争では、ディエンビエンフーの戦いが決定打となってベトナム軍が優位に立ち、その後はフランス軍が一方的に後退した。
太平洋戦争で、そんなターニング・ポイントとなった戦いを求めるなら、ガダルカナル島の戦い(1942年8月 – 1943年2月)だろう。

ここで話が少しそれる。
最近、清純派女優と中年男性の俳優との不倫疑惑が浮上し、大騒ぎになった。本人たちは否定したが、今度は文春がその証拠という「不倫LINE」を公開して、さらに騒ぎが大きくなっている。そんな中、ネット掲示板では、こんなやり取りがあって、思わずクスッときた。

「太平洋戦争で言うと、今どのあたり?」
「ガダルカナル島で負けたところかな。もうあの2人はこれから防戦一方でしょ」

こんな感じに、ガダルカナル島の戦いは、日米で攻守が入れ替わった一戦として知られている。

 

閑話休題。

1941年12月8日、日本陸軍がマレー半島に上陸し、海軍が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった。以来、陸軍は「圧倒的ではないか、我が軍は!」というほどの勢いで勝ち進んでいく。そんな連戦連勝だった陸軍を茫然自失にさせたのが、ガダルカナル島の戦いだ。

この島はオーストラリアの北東にあり、大きさは千葉県とほぼ同じ。
1942年の7月、日本軍はアメリカとオーストラリアの補給ルートを断つため、ガダルカナル島で飛行場の建設を始めた。
その動きを知った米軍は8月に、1万を超える海兵隊の部隊を島に送り込み、飛行場を占領することに成功。日本軍も飛行場を奪い返すために部隊を上陸させたが、「せいぜい2千人ぐらいだろう」と舐めてかかったら、実は1万人以上の兵がいて、機関銃で攻撃されて返り討ちにあい、全滅した。翌朝、海岸には無数の日本兵の遺体が転がっていた。
その後も日本は部隊を送り込んだが、米軍には歯が立たず、大地を血と死体で埋めるだけだった。

日本軍が建設した飛行場を奪った米軍は制空権を確保し、輸送船を空から襲ってバンバン沈めたため、日本軍は武器や食糧を運ぶことが困難になる。ガダルカナル島にいた日本兵は飢餓状態となり、次々と命を落とし、ガ島は「餓島」と呼ばれた。
日本軍は惨敗し、1943年2月に島から撤退した。

日本軍の犠牲者の数はサイトによって違うが、AIに聞くと、戦闘による死者は約5000人、飢餓や病気による死者は1万5000人以上だという。
米軍との戦闘よりも、飢えに苦しんで亡くなった兵のほうが多かったことは間違いない。
ガダルカナルは「帝国陸軍の墓地」とも言われる理由だ。

この戦いで、日本陸軍の連戦はストップし、攻守が入れ替わって、今度は米軍のターンとなる。米軍はここから北上し、1944年11月にマリアナ・パラオ諸島の戦いに勝利すると、B-29による日本本土への爆撃が始まり、翌年8月に日本は降伏した。

 

フランス軍はディエンビエンフーの戦い、日本軍はガダルカナル島の戦いと、「絶対に負けられない一戦」を落としてしまい、その結果が取り返しのつかないものとなった。
「あの時、ああしていれば、我が軍は勝っていた!」という精神勝利をフランス人もしているかもしれない。

 

 

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