ナポレオンの大復活と、権力にひれ伏すメディア

5月18日は1804年、ナポレオンがフランス皇帝に即位した日。
1789年にフランス革命が起こり、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑され、ブルボン朝は一度、地上から消えた。
周辺国にとっては、王政を否定する革命思想は超危険だったため、オーストリア、ドイツ(プロイセン王国)、イタリア(ナポリ王国やサルデーニャ王国)、スペイン、イギリスなどが同盟を組んでフランスを攻撃した。しかし、ナポレオン軍の活躍によってフランスは防衛に成功し、国民は彼を熱狂的に支持した。
救国の英雄となったナポレオンは、1804年に皇帝となり、頂点に立った。

 

1811年のヨーロッパ
最も色が濃い部分がフランス帝国で、その次に濃いのが衛星国、そして最も薄いのが同盟国。
イギリスは「フランス色」に染まらず、独立を守って戦っていた。

 

皇帝ナポレオン

 

皇帝となったころ、ナポレオンは全盛期を迎えていた。
彼は「最大の危険は勝利の瞬間にある」とイケメンなことを言ったらしいが、その言葉どおり、このあと徐々に勢いを失っていく。
1812年のロシア遠征で惨敗すると、「今でしょ!」とプロイセンやスウェーデンなどが立ち上がると、形勢は一気に逆転する。戦いに敗北し、追い詰められたナポレオンは絶望のあまり、フォンテーヌブロー宮殿で自殺を図ったという。
フランスではルイ18世が即位し、ブルボン朝が復活。退位を強制されたナポレオンはエルバ島に追放された。

 

1814年、エルバ島に追放されるナポレオンを描いた風刺画。
ナポレオンは折れた剣を持ち、ロバと反対方向を向いている。島へ流されることを嫌がる元皇帝をからかっているのだろう。

 

しかし、1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って再び皇帝となる。
ちなみに、日本では後醍醐天皇が鎌倉幕府を怒らせて島流しにされた後、島を脱出して京都で天皇に返り咲いた。
ここまで見事な「頂点→没落→再び頂点」という復活劇は、世界の歴史でもなかなかない。

後醍醐天皇とナポレオンの流転:囚人→脱出→天皇(皇帝)へ

ナポレオンはパリへ帰還して皇帝となったが、すぐにワーテルローの戦いで敗れ、再びその地位を失ったため、「百日天下」と言われる。
彼はフランスから絶望的に南にある絶海の孤島、セントヘレナ島へ流された。今度は完全に「封印」され、彼はそこで生涯を終えた。

しかし、話は終わらない。
日本のネットでは、ナポレオンがエルバ島を脱出してパリへ帰還するまでの間、フランスの新聞の見出しが次のように変化したという“ネタ”が書き込まれることがある。

「怪物、流刑地を脱出」
「コルシカの狼、カンヌに上陸」
「悪霊、ガップに出現。討伐軍が派遣さる」
「食人鬼、グラッスへ」
「王位簒奪者、グルノーブルを占領」
「悪辣皇帝、リヨンに。恐怖のため市民の抵抗は無し」
「僭主、パリより50マイルまで迫る」
「ボナパルト、北方へ進撃。速度増すもパリ入城は不可能か」
「ナポレオン氏、明朝パリへ」
「皇帝陛下、ご帰還。皇帝万歳」

細かい表現の違いはあるが、これは権力に迎合するメディアを皮肉っている。
ナポレオンのアップダウンもすごいが、この新聞の手のひら返しも相当だ。
最近では、伊勢新聞のコラム『大観小観』がこのネタに触れている。(2024-02-02)

しかし実際には、フランスの新聞はこんな見出しを掲載していない。この話は19世紀初め、誰かが創作したらしい。
それでも、この話自体は間違いなくあった。どの時代、どの国にも権力を恐れ、ひれ伏すメディアがあって、それが人々の共感を得るから、このネタは無くならないのだ。

 

 

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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