生田万の乱

本日7月3日は1837年に生田万の乱があった日。だもんで、今回は倒幕について書いていこう。
ただ、この出来事は知名度が低いから、生田万を「いくたまん」と、まるで新種の中華まんのように読んでしまう人も多いと思う。正しい読み方は「いくたよろず」で、大塩平八郎の乱があった1837年に彼も反乱を起こした。

 

江戸幕府をぶっ倒す、倒幕運動はいつからはじまったのか?

徳川慶喜が1867年に政権を朝廷に返す「大政奉還」をしたことで、江戸幕府が終わった。そして、翌年1868年に戊辰戦争が起こり、江戸城が新政府軍に明け渡され、幕府は完全消滅した。
この動きの中心にいたのは薩摩藩と長州藩。もともと敵同士だったこの2つの藩がタッグを組んだ1866年から、倒幕運動が本格化したので、倒幕運動の始まりは薩長同盟からだと考えていい。
ちなみに、1867年には朝廷から「徳川慶喜は『賊臣』である。これを討て!」という内容の討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下された。朝廷の支持を受けて、薩摩藩と長州藩の動きが加速する。

上記の流れの“起点”となったのは1853年のペリー来航で、開国を迫られた幕府は動揺し、力を失っていった。全体的に見て、倒幕のはじまりをこの時に求めてもいい。
さらに、その後の倒幕運動がスムーズに進んだ背景には、1837年の大塩平八郎の乱がある。これが倒幕の「遠因」になった。
この時、日本は天保の飢饉に見舞われ、食べ物が無くなって民衆は飢えに苦しみ、餓死者が続出。享保の大飢饉、天明の大飢饉、そして天保の飢饉は「江戸三大飢饉」と呼ばれ、大きな被害をもたらした。天保の飢饉が始まった1833年から5年間で、人口が125万人ほど減少したというデータもある。

 

天保の飢饉で保護を受ける被災者

 

民衆は飢餓地獄にいるのに、役所は救済に動かず、豪商たちは利益を求めて米を買い占めていた。
そんな中、大塩平八郎という正義感の強い漢(おとこ)が立ち上がる。彼は民衆を救うために仲間とともに、豪商の家に大砲を撃ち込んだり、幕府の奉行所と戦ったりした。
この乱は半日ほどで終わったが、日本に与えた衝撃は大きかった。
大塩平八郎はもともと幕府の役人だったため、農民の一揆とは性質がまったく異なる。江戸時代に武士が幕府に反乱を起こすのは、これが初めてだったかもしれない。しかも、場所は大阪だ。大阪は幕府が直接支配する天領(直轄地)で、そこで元役人が幕府の兵と銃撃戦をしたから、下は庶民から上は大名・幕府まで日本中が驚いた。

 

民衆が飢えに苦しむ一方で、役人や米商人は不正を働いて金儲けをしているーー。

そんな不正や不平等は別のところでもあり、熱い正義感に燃える人たちはそれを憎んでいた。彼らが大塩平八郎の思想や行動に影響を受け、各地で反乱が起こるようになった。そのその一つが、越後で国学者の生田万が貧しい人々を助けるために立ち上がり、代官所を襲った「生田万の乱」だ。
生田万は「大塩門弟」と名乗り、「奉天命誅国賊」の旗を掲げて庄屋や陣屋を襲撃したが、すぐに長岡藩の兵に鎮圧された。
大大塩平八郎の乱が呼び水となって、他にも大阪で山田屋大介を指導者とする「能勢騒動」が起こった。

大塩平八郎の意思を継いで、幕府の不正や腐敗に反抗する動きは各地で起こった。こうして日本で反幕の気運が高まっていき、それが30年後の倒幕へとつながった。先駆者や下準備という意味で、大塩平八郎や生田万の乱も倒幕運動のはじまりに入れていい(と思う)。

 

 

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