江戸幕府の最後の将軍、徳川慶喜には変わったニックネーム(というか悪口)があった。当時の日本では肉食がタブー視されていたにもかかわらず、慶喜は豚肉が大好きでよく食べていた。人々は陰で「豚一様(とんいちさま)」と呼んでいたのだ。
※慶喜は一橋家の出身。
室町幕府の6代将軍、足利義教(よしのり)はそんな親しみやすい人物ではない。彼は残酷な性格をしていて、気に入らない人物を殺したり、僧を自殺に追い込んだりしたため、「万人恐怖」と恐れられ、後の日本ではそれが彼の代名詞となった。
しかし、1441年のきょう7月12日、そんな残酷将軍は播磨の守護大名、赤松満祐(みつすけ)に暗殺された(嘉吉の乱)。
さて、ここからはお米の国から、トウモロコシの国の話になる。
幕府が崩壊して明治政府が誕生するような政権交替、国民に恐怖を与える統治者、そして要人の暗殺はメキシコの歴史でもあった。しかし、これから書く出来事は、日本の歴史にはなかった。なくて本当によかったことだ。
7月12日は1562年に現在のメキシコで、スペイン人のディエゴ・デ・ランダが多くのマヤの絵文書の焚書を命じた日でもある。絵文書が燃やされたことで、マヤの文明は永遠に失われてしまった。
それについてはこの記事を。
【征服と破壊】メキシコ人が日本の歴史を“うらやましい…”と思ったわけ
1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達すると、多くのスペイン人がこの「新大陸」にやって来て、先住民を迫害・虐殺したり、この地にあったアステカ文明やマヤ文明を滅ぼすなど、やりたい放題をした。
それがあまりにも酷かったため、同じスペイン人でもドン引きする人もいた。1552年にキリスト教の聖職者だったバルトロメ・デ・ラス・カサスが『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を記し、スペイン人の行為を糾弾する。
※西インド諸島やアメリカ大陸など、スペイン人が到達した地域は「インディアス」と呼ばれた。
ラス・カサスの報告にはこんな内容が書かれている。
・先住民を一箇所に集め、火を放って生きたまま焼き殺した。
・先住民の男たちには過酷で危険な金の採掘をやらせ、女性には食べ物として「草」を与え、重労働の農作業をさせた。女性の乳は出なくなり、生まれたばかりの幼児はみんな死んでしまった。
・スペイン人は数え切れないほどの強盗と暴力行為をしている。
・多くの先住民を自殺に追い込んだ。
・鉱山で働く両親が死亡したため、6千人以上の子供たちが殺害された。
ソース:「A Short Account of the Destruction of the Indies」
ラス・カサスの記述には誇張や誤りもあったかもしれないが、スペイン人が虐殺や破壊行為をしていたことは間違いない。

スペイン人の残虐行為を描いた絵。
キリスト教の救世主(イエス)とその十二使徒への敬意を表すため、13人の先住民を絞首台に吊るし、その下で火を起こし、彼らが灰になるまで焼き尽くしたという。
(当時のヨーロッパの常識からしたら仕方なかったかもしれないが)スペイン人は先住民を見下し、異教徒である彼らの文化を「迷信」や「悪魔崇拝」と考えていた。ディエゴ・デ・ランダもその1人で、彼が多くの絵文書を燃やした結果、マヤの文明は消えてしまった。
メキシコにはアステカやマヤの文明が存在していたけれど、スペイン人はそれを徹底的に破壊した。
現在のメキシコ人はスペイン語を話し、男性の名前にはホセ、ルイス、フランシスコといったスペイン語圏のものが多い。知人のメキシコ人は、スペイン人が来る前にあった自分たちの独自の文化や文明を知りたいと思っている。それはアイデンティティの確立に重要なことなのに、今ではその多くが失われ、再発見することはできなくなったから、彼はそれを悲しく思っている。
いっぽう、日本は異民族の支配を一度も経験したことがない。政権が変わっても、同じ日本人が歴史の主人公だったから、文化が根絶やしにされることはなかった。だから、現在でも日本人は日本語を話しているし、奈良時代やそれ以前の伝統も残っている。
日本とメキシコの歴史と文化において、これは決定的な違いだ。

世界史の年表を見ると、日本だけが古代から同じ国として続いていることが分かる。

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