8月21日は日本では、1192年に源頼朝が将軍(征夷大将軍)になった日だ。
この年に鎌倉幕府が成立したとされていたが、近年では、各地に守護や地頭が置かれ、頼朝の支配が全国に広がった1185年を幕府成立の年とする説が有力。
ヨーロッパに目を向けると、8月21日は1772年に、スウェーデンで「自由の時代」が終了した日だ。スウェーデンは大北方戦争(1700年 – 1721年)でロシアなどと戦い、国王カール12世が戦死し、敗北した。ロシアはこの戦争に勝ち、帝政ロシアが成立する。
その後、スウェーデンでは王の権力は弱体化し、貴族、聖職者、ブルジョワジー、農民の4つの身分の代表が話し合いで政治を動かす議会制に移っていく。
しかし、1772年にスウェーデン王グスタフ3世がクーデターを起こし、議会を解散させて「自由の時代」を終わらせた。
幕府と議会は、日欧の歴史の違いを示すキーワード。
日本では明治時代まで、天皇の下に幕府があり、そこで政治がおこなわれていた。いっぽう、ヨーロッパでは皇帝や王の下には議会があり、そこが政治を動かしていた。
王と議会のパワーバランスや議会の実態は国や時代によって異なる。たとえば、13世紀のイギリスでは、貴族、聖職者、騎士、市民の代表が議会を形成していた。
日本では、さまざまな立場から選ばれた人たちが政治をおこなう体制は、明治時代まで存在しなかった。江戸時代までの日本人の頭の中には、公家、武士、町民、僧侶(神職)の代表が話し合って日本の動かす「議会制」という考え方なんてなかったはずだ。

エリザベス・シドモア(1856年 – 1928年)
日本では、幕府と議会という違う概念の体制が「コラボ」しそうになったことがある。
幕末に黒船が現れ、アメリカから開国を迫らた幕府は動揺し、権威を失っていく。そして、薩摩と長州を中心に倒幕運動が起こると、幕府は崩壊の危機を迎えた。その時、衝突を避ける意味でも、欧米の議会制を参考にして新しい政治体制をつくろうとする動きが出てきた。この政治構想を「公議政体論」と言う。
明治時代に日本に来たアメリカ人女性のシドモアは、日本が江戸から明治に劇的に変わる様子を旅行記について次のように記した。
政治的にも社会的にも、日本人は西洋世界を手本にし、その結果による王政復古は、今世紀最大の驚異的政治問題を提示しました。
古い秩序の突然の放棄、そして近代的秩序の出で立ちで武装する国民皆兵が、直面する危機解決の最も現実的永続的手段としてただちに導入された事は、少なくても欧州の間ではたいへんな驚きでした
「シドモア日本紀行 (講談社学術文庫)」
1867年に徳川慶喜が政治の権利を明治天皇に返し、大政奉還がおこなわれた。翌年1868年、天皇を中心とする新政権が発表され、源頼朝の時代から続いていた武家政権(幕府)が廃止された(王政復古の大号令)。
これは、ヨーロッパでは考えられないことだっただろう。イギリスやフランスでは、王が絶対に権力を手放そうとしなかったため、議会と対立し、最後は処刑された。
「古い秩序の突然の放棄」が当時の西洋人に大きな衝撃を与えたのも当然だ。
しかし、これには「ウラ」がある。
慶喜はいさぎよく政権を天皇に返上したように見えたが、実は公議政体論にもとづいて、徳川家を日本の実質的な元首とし、その下に諸侯を集めて話し合いで政治をしようと考えていたという説がある。それなら、幕府や将軍がなくなっても、徳川家が日本を動かすことができる。
当時の慶喜は倒幕運動と直面していたし、自分が主導権を持ち続けられると思えば、政権を“あっさり”と放棄したこともうなずける。
しかし、明治新政府がそんな都合のいいことを許さなかったから、この「公議政体論」は夢に終わった。

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