9月4日は1870年に、パリで民衆が蜂起した日。なので今回は、日本がどれだけ地理的に恵まれていたかを書いていこう。
その前日、フランスの皇帝ナポレオン3世がプロイセン(ドイツ)の捕虜となった。彼は世界史で最も有名な人物の一人、ナポレオン皇帝の甥(おい)にあたる。1852年、ルイ・ナポレオンがクーデターを起こし、皇帝に即位して「ナポレオン3世」と名乗り、フランスで第二帝政をはじめた。
その後、フランスとプロイセン(ドイツ)は対立を深め、1870年7月、ナポレオン3世が宣戦布告して普仏戦争がぼっ発。しかし、フランスはあっさり負け、9月3日にプロイセン軍の捕虜となる。
その知らせはすぐにパリに届き、市民は「もう皇帝なんていらねー!」という気持ちになって蜂起した。君主制を廃止し、共和制の実現を求める運動がパリ中に広がった結果、共和政の臨時政府が爆誕。これで第二帝政は崩壊し、以来、フランスは2025年の今も共和政国家のままでいる。
フランスのラストエンペラーは誰かといえば、それはナポレオン3世だ。
ちなみに、ナポレオン3世は戊辰戦争(1868年 – 1869年)で幕府側を支援した。幕府は負けたから、彼にはつくづく「先を見通す力」がなかった。
皇帝が捕虜になった事例は、中国史にもある。
1127年、女真族の国である「金」が北宋の首都・開封に攻め込み、皇室の財産を奪い、皇帝(欽宗)と太上皇(徽宗)の二人を捕虜として金に連れ去った。この靖康の変(せいこうのへん)によって、北宋は滅亡した。
皇帝が拉致されるという、国家の非常事態はその後も起きた。
1449年、北方民族のオイラトが明に攻め込むと、第6代皇帝・英宗が「駆逐してくれるわっ!」とみずから軍を率いて出陣したが、明軍は兵の半数を失う大敗北を喫し、英宗はオイラト軍の捕虜となった。この「土木の変」で明王朝は滅亡することはなかったが、大きなダメージを受けることとなる。
翌年、1450年、オイラトは英宗を解放し、彼は北京に戻ることができた。しかし、そこには弟で第7代皇帝の景泰帝(けいたいてい)がいたため、
兄「ごめん、戻ってきちゃった…」
弟「今さら困るんですけど…」
という気まずい対面になったと思われる。
島国の日本は、陸続きのヨーロッパ諸国や中国のように、敵国に攻め込まれることがほとんどなかった。
もし中国大陸の一部だったら、そんなラッキーなことは起こらなかったはずだ。19世紀の朝鮮王朝のように、国の最高実力者である大院君が清の軍人・袁世凱に捕まり、中国へ連行されるような屈辱的な出来事が起きていただろう。
また、島国であっても、マダガスカルのように比較的ヨーロッパの近くにあったら、フランスによって国王がインド洋の島へ追放されるような悲劇が起きた可能性もある。
今の日本が存在している大きな要因に、四方八方を海に囲まれ、ヨーロッパから「極東」と呼ばれるほど離れていたという地理的な運の良さがある。もしそうでなかったら、フランスや中国であったように、天皇が敵に連れ去られて王朝が滅亡するという悪夢が現実になっていたかもしれない。

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