かみ合わない日韓の歴史認識 安重根の評価・鳴梁海戦の結果

だれかと議論をしていて、話がまったく噛み合わなくて「もうオマエの顔なんて見たくない!」となる前に話を終えたいとき、英語圏では「Let’s agree to disagree」というフレーズを使うことがある。
直訳すれば「お互い同意(agree)できないことに同意しよう」になって、「意見は人それぞれだね」や「見解の違いを認め合おう」といった感じで、その場を収めたいときにこの言葉を使う。
日本と韓国の歴史認識では、そんな「Agree to disagree」になることがよくある。相手の意見に同意することはできないが、自分の意見を譲ることもできない。かといって、相手との関係は壊したくないから、「意見が違うってことだね」でその場を何とかまとめようとする。

 

その意味で、10月26日は日本と韓国にとって象徴的な日だ。
1909年のこの日、伊藤博文が中国東北部のハルビンで、安重根に銃撃されて命を奪われた。
日本にとって伊藤博文は動乱の幕末を乗り越え、初代内閣総理大臣となって日本の近代化に貢献した偉人。ちなみに、中国に朝鮮の独立を認めさせた日清戦争の講和条約(下関条約)で、日本の代表として中国側と話し合ったのも伊藤博文だ。

そんな伊藤は、1905年の第二次日韓協約のあと、初代韓国統監をまかされ、朝鮮を統治する立場になった。そのため、現代の韓国では「侵略の元凶」として忌み嫌われている。
ある韓国人が子どものころ、悪口として「伊藤博文みたいだ」とよく言っていたから、そんな人物が「日本国民の尊敬を受けていたと知った時は驚いた」と、韓国メディア「東亜日報」のコラムに書いてある(23, 2016)。

[オピニオ]伊藤博文と博文寺

韓国社会では、「悪い日本人」を撃ち殺した安重根は「義士」と呼ばれ、国民的英雄としてとても尊敬されている。
(上のコラムを読んで、事件後、安重根の次男が伊藤に謝罪をしたということを初めて知った。)

安重根に対する日本の見方は正反対。2014年に菅官房長官が言った「死刑判決を受けたテロリスト」という言葉に集約されている。この時、英雄を犯罪者として扱われて韓国側は猛反発し、「周辺国への無慈悲な侵略と略奪を行った日本はテロ国家だ」と非難した政治家もいた。
かといって、日本が安を“義士”と見なすことはできないから、「Let’s agree to disagree」と言うしかない。

 

統監時代の伊藤博文は韓国文化を尊重していて、民族衣装である「韓服」を着て記念写真を撮ったこともある。

 

暗殺される直前の伊藤博文

 

10月26日は、1597年に「鳴梁(めいりょう)海戦」があった日でもある。この戦いについても、日韓ではみごとに意見が一致していない。
この時は豊臣秀吉による朝鮮出兵(韓国側では壬辰倭乱)の最中で、朝鮮半島の南部で日本軍が李舜臣が指揮する軍と激突した。
鳴梁海戦の結果について、日本語のウィキペディアには「朝鮮水軍の退却」と書かれているが、韓国語のウィキペディアには「조선 수군의 결정적 승리(朝鮮水軍の決定的な勝利)」となっている。
呼び方も違って、韓国では一般的に「鳴梁大捷」と言われている。捷(しょう)は「勝つ」という意味だから、鳴梁大捷は「鳴梁の大勝利」といった誇らしい意味になる。

韓国側の説明によると、朝鮮水軍はたった12隻で、330隻あまりの日本水軍に立ち向かい、約320隻を沈めたことになっている。
そんなことから総合的に鳴梁大捷は、

「이 전투는 조선이 정유재란을 승리로 이끄는 결정적 전투가 되었다」
(この戦いは、朝鮮が壬辰倭乱を勝利に導く決定的な戦いとなった。)

と絶賛され、現代の韓国で李舜臣は祖国を守った英雄として尊敬されている。

いっぽう、日本の見方は違う。鳴梁海戦の緒戦で日本水軍は損害を受けたが、それは大したものではなかった。その後は日本水軍が優勢に立ち、一方的に押しまくった。

「朝鮮水軍はまともな反撃を行うこともできないままに後退を重ね、9月19日に七山海(霊光郡沖)、9月21日には遥に全羅道北端の古群山島(群山沖)まで後退している」

最終的には、日本軍は作戦目標を「完全に達成した」というから、これは日本の勝利と言っていい。先に1点を取られても、3−1で試合に勝てば問題ない。
朝鮮出兵(壬辰倭乱)についても、秀吉が死んだことで五大老が帰国命令を出し、日本軍が明と交渉したうえで撤退して終わったから、日本側に「負けた」という認識はない。
だから、鳴梁海戦も「Let’s agree to disagree」と言うしかない。

しかし、この考え方は相手を尊重し、意見の違いを受け入れることが前提になっている。
きっと日本人はヒートアップする前に、そう言って議論をまとめようとしても、きっと韓国人はそう簡単に終わらせてくれない。安重根を義士、鳴梁大捷は文字どおり朝鮮の「大勝利」だったことを認めさせようと粘り、なかなか「agree to disagree」を納得しない。
日韓の歴史認識のミゾは深く、それが完全に一致するのはそれが起きた年月日ぐらいなものだ。
もちろん個人差はあるが、全体的にはこうなるパターンが多いと思う。日韓の「歴史論争」を終わらせる魔法の一言はまだ開発されていない。

 

 

日本 「目次」

韓国 「目次」

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

コメント

コメント一覧 (3件)

  • 確かに、日韓の歴史問題はChaosです。
    特に、李舜臣将軍の記録に関して混乱しています。 鳴梁海戦については、「承政院日記」「宣祖実録」。そして李舜臣将軍の日記「乱中日記」に記録されているのが現在の韓国側の記録です。李舜臣については日本国内でも意見が食い違っているようですね。 日露戦争当時に出征していた日本海軍が李舜臣将軍に祭祀を行ったという日本人の話もあることから、李舜臣は議論の人物のようです。今後、韓日の歴史学者が事実を研究し、正しく明らかにしなければなりません。

    伊藤博文については最近、韓国内の歴史学者のごく一部がこれまでの韓国内の通説だった”朝鮮侵略の元凶伊藤博文”をかなり否定しています。伊藤は決して朝鮮併合を望まなかった人物だという事実を歴史的根拠を提示して証明しているのです。しかし、その声は韓国内の全体主義的性向のため、私のようなごく少数の韓国人に知られているだけで、依然として伊藤博文は”朝鮮侵略の元凶”とみなされています。

    10 月 26 日が伊藤(伊藤が)が狙撃され殺害された日だということは、このブログを通じて初めて知りました。 韓国でこの日は「10·26事件」として知られていますが、まさに韓国近代化の英雄、朴正煕大統領が1979年10·26に自身の腹心である中央情報部長の拳銃に殺害された日です。

  • 日韓の歴史認識は大きく違います。真実は学者が明らかにするしかありません。市民レベルでは、相手の考え方は変えられないので「Let’s agree to disagree」で妥協するしかないです。

    >伊藤は決して朝鮮併合を望まなかった人物だという事実を歴史的根拠を提示して証明しているのです。
    韓国でそういう声が広がることを期待します。むずかしいと思いますけど。

    >韓国でこの日は「10·26事件」として知られています

    日韓の元首相と大統領が同じ日に暗殺されたというのは、偶然ですが興味ふかい事実ですね。

  • >日韓の元首相と大統領が同じ日に暗殺されたというのは、偶然ですが興味ふかい事実ですね。===
    そうですね。伊藤博文は明治政府の初代首相として日本の近代化と富国強兵の主役で、朴正煕大統領は韓国戦争の灰の上で社会混乱を鎮め、韓国の近代化,産業化を成し遂げた人でした。そのお二人が共に銃弾で亡くなったというのが本当に不思議です。

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