11月7日は1655年に、今も発行されている新聞(官報)としては世界最古の「ロンドン・ガゼット」(当時はオックスフォード・ガゼット)が創刊された日。
ところで、日本で「新聞の父」と呼ばれ、初めてアメリカに帰化した日本人をご存知だろうか。
これから紹介するのは、そんな異質な人物だ。
彦蔵、船が難破しアメリカへ
後にアメリカ国民となった浜田彦蔵は、1873年に現在の兵庫県で生まれた。幼名を「ピコ太郎」なら面白かったのだけど、「彦太郎」(ひこたろう)という名前だった。
成長して船乗りになった彼は、ある日、難破して太平洋を漂流し、たまたま通りかかったアメリカの商船「オークランド号」に発見&救助された。
そのままアメリカ船に乗って太平洋を横断し、1851年にサンフランシスコへ到着。
江戸時代の船乗りにとって、突然「U・S・A」に来るのは異世界転生レベルの衝撃だったと思われる。
彦蔵はそれも運命だと受け入れ、新しい世界で生きていく決意を固めることはなかった。故郷に帰りたいと思ったが、日本は鎖国中だったため、海外から戻ってきたら処刑される可能性があった。アメリカの地を踏んだ彦蔵は、日本国にとって「敵」となったのだ。

浜田 彦蔵
彦蔵、キリスト教徒になる
彦蔵は幕末の日本を騒がせたペリーの黒船艦隊に乗って、帰国するはずだったが、何だかんだあってその計画は流れてしまう。
アメリカに滞在中、彼はミッション・スクールで教育を受け、カトリックの洗礼を受け、「ジョセフ・ヒコ」(Joseph Heco)という名前を与えられた。
また、アメリカ社会において彼の存在はとってもスペシャル。彦蔵はホワイトハウスを訪れて大統領(フランクリン・ピアース)と言葉を交わした初めて日本人となった。彼はホワイトハウスの印象について、「大理石でできていて鉄の柵もあるが、大きな門はなく、護衛の兵隊もいない」と記している。
また、彦蔵はのちにリンカーン大統領とも会った。
これは、日本では言えば天皇か将軍に謁見するようなもので、ただの船乗りにしては考えられない待遇。
彦蔵、9年ぶりに帰国する
1858年、日米修好通商条約が結ばれ、日本が開国したことで、鎖国の問題は解決される。
「よっしゃー! やっとこれで帰れる」と彦蔵は喜ばなかっただろう。幕府はまだキリスト教を禁止していたことを、彼は知っていたはずだ。
彦蔵は無事に日本に帰るために、アメリカに帰化することを決意した。アメリカ国民として米政府に保護される身になれば、幕府が手を出すことはできなくなる。
彼は1859年に駐日公使のハリスによって通訳として採用され、9年ぶりに日出る国へ戻ってくることができた。
しかし、彦蔵に安寧の日々はおとずれなかった。
当時の日本には攘夷思想が広がっていて、「外国人がいると神州(日本)が汚れる」と考ええ、外国人を襲って斬りかかる「侍テロリスト(攘夷志士)」が各地に潜んでいたのだ。
アメリカ人となった彦蔵も、攘夷志士には敵となる。むしろ彼は「裏切り者」だから、強く憎まれたかもしれない。
彼は身の危険を感じ、1861年にアメリカへ戻ってしまう。
彦蔵、外国人として葬られる
それでも、故郷への思いを断ち切ることはできなかった。彦蔵は翌年、1862年に再び帰国(来日)し、日本で再び通訳の仕事をすることとなる。
そして、1865年に日本初の海外新聞と言われる、英字新聞を日本語に訳した「海外新聞」を発刊した。
1897年、ジョセフ・ヒコは心臓病で亡くなり、波乱万丈な人生を終えた。彼は法律的に日本人に戻ることができなかったため、青山の外国人墓地に葬られ、今もそこで眠っている。
アメリカ国民であっても、日本人として埋葬されたかったかどうかは分からない。

サンフランシスコに到着したころの浜田 彦蔵(14歳)
彼は写真(ダゲレオタイプ)に撮影された初めての日本人となった。
彦蔵はあまりにも異例な人物だから、多くの「日本人初」の称号を得ることとなった。

コメント