日本で12月3日は、「ワン、ツー、スリー」のかけ声にちなんで「奇術の日」となっている。が、インドとパキスタンにとっては、そんなほのぼのとした日ではない。
戦後、両国は第一次(1947年)と第二次(1965年)の戦争でケリがつかず、1971年12月3日に第三次印パ戦争がはじまった。
時間的にはわずか13日で終結したが、この戦争がインドとパキスタンに与えた結果は決定的だった。
原因:東パキスタンの独立運動と人道危機
第三次印パ戦争がぼっ発した根本的な原因は、東パキスタンの独立運動にある。
当時、パキスタンはインドを挟んで西(現パキスタン)と東(現バングラデシュ)に分かれていて、2000キロメートル以上も離れていた。
これを日本で例えるなら、本州がインドで、北海道と九州がパキスタンという状態。これほど離れていて、西ではウルドゥー語、東ではベンガル語が使われていて、文化も違った。そのため、この2つの地域が1つの国としてやっていくのは無理があった。
さらに、西パキスタンによる差別的な扱いもあり、東パキスタンの人たちは忍耐の限界を超え、武器を持って立ち上がった。
1971年にバングラデシュ独立戦争が始まると、パキスタン政府は軍を派遣し、武力で弾圧を開始。これによって独立運動は激化し、東パキスタンでは虐殺が行われ、結果的にインドは「事故」に巻き込まれた。
数百万人(または1000万人以上)の難民が隣国インドに流入したことで、インド国内は混乱し、経済的負担も発生する。インドにとっては、難民問題を解決する必要があったし、それまで2度も戦争をしたパキスタンに打撃を与える意味でも、東パキスタンの独立を支援することを決めた。
ちなみに、ビートルズのジョージ・ハリスンは、インドに大量の難民が流入し、彼らが悲惨な生活をしていることを知り、大規模なチャリティーコンサートを開いて、その収益とレコードの売上などで1500万ドルを集め、難民支援のために寄付した。
これが最初の事例となり、人道的危機が起こった際、アーティストがコンサートを行って寄付金を集め、人道支援をおこなうようになった。
過程:パキスタン軍の先制攻撃とインド軍の反撃
西パキスタン側は、インドとの戦争は避けられないと考え、1971年12月3日、インドの軍基地に空爆をおこなう。日本の歴史で例えるなら、これは「真珠湾攻撃」だ。インドはその日の夜、西パキスタンに宣戦布告し、第三次印パ戦争が始まった。
パキスタン軍としては、先制攻撃によってインド空軍を無力化し、インドに対して優位に立つつもりだったが、期待していたほどのダメージをインド側に与えることはできなかった。(インド側は攻撃を予想し、備えていたと思われる。)
パキスタン軍は最初の計算が狂い、善戦した部分もあったが、全体的には兵力でも軍の装備でも上回るインド軍に押されまくった。
パキスタン軍にはインドとの国境近くの西部戦線と、東パキスタンの東部戦線で同時に戦う力はなく、戦争開始からわずか13日後、12月16日にパキスタン軍はダッカで降伏文書に署名し、戦争は終結した。

ダッカで降伏文書に署名するパキスタン軍の司令官
結果:バングラデシュの独立と南アジアのパワーバランスの変化
第三次印パ戦争は、パキスタンにとってこれ以上ないほど残酷な結果をもたらした。
東パキスタン(バングラデシュ)が独立したことによって、パキスタンは人口と国土のおよそ半分を失い、軍も経済も大きなダメージを受けた。
パキスタンにとって、この戦争は完全かつ屈辱的な敗北であり、ライバルであるインドに敗れたことによる心理的な打撃となったという。
For Pakistan, the war was a complete and humiliating defeat, a psychological setback that came from a defeat at the hands of rival India.
インドにとっては決定的な勝利となり、軍事的・政治的にパキスタンより優位に立つことが明確になった。また、アメリカをはじめ世界中の国々が、南アジアにおいてインドが「主要プレーヤー」となったことを認識するようになった。
インドは国際的な地位を上げることに成功し、大きな外交力を手に入れた一方、パキスタンは失墜した。この影響は今もつづいている。

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