「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして『まさか』だ。」
2007年、当時の小泉純一郎首相が言って話題になったこの言葉は、戦国武将の毛利元就の故事に由来するらしい。
太平洋戦争中の1942年12月31日、日本軍はガダルカナル島の戦いで敗北を認め、撤退を決定した。日本にとってこの戦いは「まさか!」の連続だった。
大本営の想定ミス
当時、日本軍の司令部である「大本営」は東京にあった。
大本営は、アメリカ軍が本格的に反撃してくるのは早くても1943年(昭和18年)以降になると想定し、戦略を練っていた。しかし、日本はアメリカの国力や準備の早さを甘く見積もっていた。今風に言えば「舐めプ」をしてしまったのだ。
実際には、米軍は1942年7月に「ウォッチタワー作戦」という反攻作戦を開始。
予想を半年以上も上回るスピードで、アメリカ側が準備を整えて動き出したことで、日本は前提を失って戦略を練り直さざるを得なくなった。
大本営は油断していたわけだが、「まさか!」と思ったに違いない。
大型の艦船に大量の食料や弾薬などを運べる海軍なら、状況の変化に対応しやすいが、しっかり補給線を構築して作戦行動を取る陸軍は作戦変更がむずかしい。
日本軍はガダルカナル島の戦いでそもそも準備不足だったし、急いで作戦を考え直した結果、その時点で「負けフラグ」が立っていたのだ。
戦力の見誤った一木支隊の悲劇
ガダルカナル島に米軍が上陸したという知らせを受け、日本軍は一木清直(いちききよなお)大佐が率いる「一木支隊」を派遣した。
日本側は米軍の戦力を2000人と見積もっていたが、実際には島を固めていたアメリカ海兵隊は1万人以上もいた。
想定の5倍を超える大軍がいると分かっていたら、こんな無謀な攻撃を仕掛けることはなかっただろう。
一木大佐は日本陸軍が得意とする「白兵銃剣」による夜襲をすれば、米軍を簡単に撃破できると信じていた。しかし、一木支隊の動きは米軍の監視機関(コーストウォッチャーズ)に把握されていた。
アメリカ海兵隊は事前に情報を受け取り、防備を固めて待ち構えていた。一木支隊は相手が1万を超える大軍だとは思ってもいなかったし、対戦車砲や機関銃といった火力でも圧倒されていた。
さらに、飛行機の機銃掃射を受け、6両の戦車に攻撃されて一木支隊は壊滅した。
「まさか」の連続で敗北した日本軍
ガダルカナル島での初戦は日本軍の大敗北に終わり、勝利した米海兵隊は大きな自信を得ることができた。米軍の戦史には、
「From that time on, United States Marines were invincible」
(その時から、アメリカ海兵隊は無敵となった)
と記されている。
「まだ米軍は来ないだろう」という希望的観測。
「敵は少ないはずだ」という不確かな見積もり。
「白兵銃剣で夜襲を仕掛ければ勝てる」という根拠のない自信。
さらに情報戦でも遅れをとっていて、日本軍はガダルカナル島の戦いで「まさか」の連続が続き、米軍に惨敗した。
客観的で正確なデータを把握しないで、自分の都合の良いように現実を解釈すると、こういう悲劇が起こる。

包囲殲滅された一木支隊
ガ島の戦いのその後
1941年12月、日本軍は真珠湾攻撃とマレー上陸作戦に成功し、順調に勝ち進んでいた。
しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で敗れ、主導権が米軍に移り、ガダルカナル島での敗北で米軍の反転攻勢が決定的となった。
この2つの戦いは、太平洋戦争におけるターニングポイントとして知られている。
これ以降、日本は米軍に押され続けた。これが「下り坂」だ。
日本軍が「絶対防空圏」として設定したサイパン島まで落とされ、B-29爆撃機による日本本土への爆撃が可能となり、2度の原爆投下で力尽きた。
当初、日本は「上り坂」を上がっていたが、ミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いで「まさか」の敗戦を経験し、その後は「下り坂」を下っていって奈落に落ちた。

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