アメリカのドラマやニュースを見ていると、日本人の価値観に反しているから、「これっていいの?」と思ってしまうシーンがよく出てくる。
それが「足組み」だ。
たとえば就職試験の面接で、20代前半の若者がイスに深々と座って足を組んだら、その瞬間に「ハイ、お疲れ様でした」とドアを指さされる予感がする。
それか、一周回って「こいつは面白そうだ」と興味を持つレアな会社があるかもしれない。
しかし、日本ではとんでもなく非常識で非礼なこの態度も、アメリカならノープロブレム。むしろ、歓迎される。
少なくとも170年前から、アメリカでは自由と平等、日本では規律と礼儀が重視されてきて、今では大きな違いとなって表れている。
アメリカ人教師が驚いた「足組みNG」のルール
知り合いのアメリカ人は日本の学校で英語を教えていて、数年前に帰国した。
彼女が日本で働くことが決まったあと、事前のマナー研修を受けているとき、「年上や立場の上の人の前で足を組んではいけない。日本の文化でそれは失礼になる」と教わり、来日する前にカルチャーショックを受けた。
アメリカの社会では、その態度がマナー違反にはならない。
足を組んでリラックスした姿勢をとることは、「あなたに心を開いている」という親しみを表す良いマナーとして受け取られるのが一般的だ。
相手に対してガチガチに緊張した姿勢でいるよりも、リラックスした自然体で接するほうが、相手も安心できて対等に話すことができる。
アメリカのニュースやテレビ番組を見ると、生徒が先生に対して、あるいはインタビュー相手が有名人や大統領でさえも、足を組んで和やかに会話をしている場面が当たり前のように放送されている。
アメリカ社会では、そうやって「フレンドリーな関係」を作ろうとすることが正解だ。
一方、日本の社会では、目上の人や先輩の前で足を組んで座ることは、「親しさのサイン」ではなく、「失礼な態度」に映るため、学校で絶対にやってはいけないこととされている。
価値観が逆転するから、講師がそう話すと会場がざわついたという。
日本では、「姿勢を正すこと」で相手への敬意を表現するという文化がある。
中学校や高校の部活動でも、先輩の話を聞くときに、後輩が足を組んでいると「だらしない姿勢」と受け取られて注意される。
これはちょっとした侮辱だ。
膝をそろえて話を聞くことが「=あなたを尊重している」ということになり、日本のマナーの基本として深く根付いている。
170年前から続く価値観の差
きょう3月31日は、1854年に江戸幕府がペリーと日米和親条約を結んだ日だ。
これによって、下田や函館が開港されることになり、「鎖国」が終わった。
彼が残した記録を読むと、すでにこの時から、日米の間には価値観の違いが表れていたことがわかる。
「自由と平等、カジュアル」を重視するアメリカに対し、日本は「規律と礼儀、シリアス」を尊重した。
ペリーは日本の文化やルール(マナー)について深く調べ、封建社会の日本では身分や格式が尊重され、人びとは「形式や儀礼」を重んじることを見抜いていた。
彼はアメリカの価値観から、それに合わせることもあれば、否定することもあった。
たとえば、幕府側は話し合いを行う会場を特別なところにするため、周囲を布で覆い、中を見えないようにした。
しかし、ペリーはそういう形式的なことを嫌った。
日本人に、敬意など表してもらわなくてもよい、幕がすっかり取り払われるまでは上陸するつもりはないと通告した。日本人はすぐさま幕を取り外した。
『ペリー提督日本遠征記』(角川ソフィア文庫)
また、ペリーは日米和親条約の調印に臨む際、できるだけ多くの海兵隊を引き連れて上陸した。
彼らはコートや帽子を身に着けて華やかに着飾り、マスケット銃や短剣を持って武装し、威厳たっぷりに登場した。
ペリーにはこんな狙いがあったという。
日本人のような儀礼好きでうわべを飾る国民に、このような見世物が及ぼす意義と精神的な影響を、提督はよく分かっていたのである。(同書)
会場では、幕府の役人が上位の役人に対し、当然のように平伏し、彼らが部屋にいる間はその姿勢を崩さなかった。
そして、平伏している役人より身分の低い役人は、彼らに対して平伏した。
その様子を見て、ペリーはこう思った。
日本人は地位にふさわしい敬意の表し方をいつも気にしていて、階級に応じて敬意の度合いを変えていく。
ペリーの目には、厳格な身分制度と礼儀を守る日本人が「かわるがわる主人となり奴隷となり」という奇異な状態に映った。
日本人が簡単にしていた「うずくまる」という動作も、アメリカ人がしたら「非常に骨が折れ、苦痛を伴うだろう」と書いている。
アメリカなら当時でも、相手の目を見て握手をしてあいさつをしたのだろうが、江戸時代の日本でそれはありえない。
許されない非礼として、首をはねられたかもしれない。
カジュアルなアメリカと違って、徹底的に「威厳」を演出することが重要だった。
日本とアメリカのマナーの違いの正体
アメリカは建国の歴史から、身分制度を嫌い、個人の自由と権利を最も大切にしてきた。それに対し、日本は儒教の影響から、社会の秩序を守るために厳しい身分制度を採用し、個人がそのシステムに合わせてきた。
「自由と権利」という概念は西洋からもたらされたもので、幕末か明治初期に日本語訳され、福澤諭吉が世に広めた。
江戸時代の日本に、現代的な意味の「個人と権利」という考え方はなかった。
しかし、幕府が崩壊して明治政府が誕生し、日本は西洋諸国をモデルに近代化した。
それから令和に至るまで、社会の制度や価値観、常識は激変したが、今でも日米のあいだには「足組みNG」のように、「正しいマナー」の基準はまったく違う。
この差を埋めるのは不可能だ。
知人のアメリカ人は20代のころ、50代の「マーティン」という上司を「マーティー」とニックネームで呼んでいた。
日本の会社で、新入社員が吉田部長を「ヨッシー」と呼んだら、きっとその場の空気が凍りつく。
アメリカではそんな感じに、上司と部下がファーストネームで呼び合ったり、足を組んでリラックスしたりして、相手との壁をなくすことが「良いマナー」になる。
しかし、日本は違う。
相手の年や立場によって、適切な距離感を保つことが「正解」だ。
集団の中での自分の役割(ポジション)を意識し、和を乱さないことが組織で求められる。
儒教では、「君は君たらん、臣は臣たらん、父は父たらん、子は子たらん」という言葉がある。
誰もが自分の名(役割)にふさわしい行動をとることによって、社会が安定するという考え方だ。
江戸幕府の日本がまさにそうだ。
今でもその影響があるから、部下が上司の前で足を組んだり、上司を呼び捨てにしたりしていたら、組織として成立しないだろう。
結論:どっちが正しい?→どっちも正しい
アメリカの自由なマナーも、日本の厳しいマナーも、根本にある目的は「相手と良い関係を作ること」で完全に一致している。
しかし、日米ではアプローチの仕方がまったく違う。
日本では「形式と礼儀」がとても重視されているというペリーの見方は、令和の日本にも当てはまる。
だから、それに触れてアメリカ人がカルチャーショックを受けた。
国の歴史や社会の成り立ちはそれぞれ違うから、相手への親しみや敬意を表す方法も国によって異なる。
アメリカ人と話す時はフランクに、日本で目上の人と話す時は礼儀正しく振る舞えばいい。
その前提として、ペリーのように、相手の文化や価値観を理解しようとする姿勢が大事だ。

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