ポーランドと韓国の共通点
中央ヨーロッパのポーランドと東アジアの韓国。遠く離れたこの2国には、地理と歴史の面で共通点がある。
それは、周囲を強国に囲まれていたため、何度も攻め込まれた苦難の歴史があるということだ。
17世紀、ポーランドは北からスウェーデン、東からロシアに侵略され、この出来事は「大洪水」と呼ばれている。

韓国(朝鮮)もまた、16世紀に南から日本(朝鮮出兵)、17世紀には西から中国に攻め込まれ、「大洪水」に見舞われたような大きな被害をうけた。

さらにポーランドはロシア、ドイツ、オーストリアによって分割され、国家そのものが消滅した歴史をもっている。
韓国の歴史でも、自国の領土についての決定権をもたず、大国に振り回された出来事が何度もあった。

ロシア、プロイセン、オーストリアの指導者たちが地図上のポーランドを見ながら、どの国がどれだけの土地を手に入れるかについて話し合っている。
彼らには、ポーランド人の気持ちなんて眼中になかった。
満韓交換論|日露が韓国の運命を左右した
伝統的に「南下政策」を進めていたロシアは、1860年に日本海を挟んで日本の反対側に新たな軍事拠点を建設し、その都市を「ウラジオストク」と名づけた。
これはロシア語で「東方の支配者(Lord of the East)」という意味で、日本にとって大きな脅威となった。

日本はロシアと満洲と朝鮮半島をめぐって対立を深めていたが、当時のロシアは世界有数の軍事大国だ。
そのため、日本国内には戦争を避けるべきだという考えも強かった。
そこで1903年、日本は「満韓交換論」を提案する。
これは、日本が満洲におけるロシアの権益を認める代わりに、ロシアが朝鮮半島における日本の優越権を認めるという構想だ。
しかし、軍事的に自信があったロシアは、この提案を拒否。
逆に日本に対して、朝鮮半島の南側を日本の勢力下におき、北側は「中立地帯」とするという案を提示した。
これは、実質的には北部をロシアの支配下に置くことを意味するため、日本が受け入れることはできなかった。
こうして交渉は決裂し、1904年、日本はロシアと国交を断絶して戦争に踏み切った。
この風刺画は、日本とロシアの間に挟まれて苦しむ韓国を表している。
桂・タフト協定|日米が韓国の未来を決めた
日露戦争で日本は何とか勝利し、ロシアに朝鮮半島での優越権を認めさせた。
その直前、日本の勝利が決定的になったころ(1905年7月)、日本はアメリカと接触する。外務大臣の桂太郎がウィリアム・タフト陸軍長官と会談をおこない、「桂・タフト協定」を結んだ。
これは、日本がフィリピンにおけるアメリカの支配を認め、一切手を出さない代わりに、アメリカが韓国における日本の指導権を認めるという内容だ。
タフトは桂の意見に耳を傾け、韓国が日本の保護国になることによって、東アジアの情勢が安定すると考えたのだ。

桂・タフト協定や日露戦争の結果、事実上、すべての欧米列強が韓国に対する日本の支配権を承認したことになった。
これを受けて日本は第二次日韓協約を結び、韓国を「保護国」とした。
ここでも、韓国自身の意思はまったく考慮されていなかった。満韓交換論も桂・タフト協定も、大国同士が互いの利益を調整する中で結ばれたものだった。
帝国主義の時代、大国に翻ろうされた韓国
当時は、「強いが正義」という帝国主義の時代で、軍事力や経済力の弱い国はみずからの運命を決めることはできなかった。
近代化や富国強兵に失敗した韓国は、日本とロシア、さらにアメリカという大国の思惑の中で運命を大きく左右されてしまった。
韓国は自国の立場を訴えたが、国際社会からは相手にされなかった。

周囲を大国に囲まれ、国家の未来を大きく左右されたという点で、韓国とポーランドの歴史は似ている。
しかし、現在は大きく違う。ポーランドは分断を克服したが、韓国はまだだ。
戦後、アメリカとソ連という超大国の対立の中で、朝鮮半島は南北に分断され、韓国はいま北の「敵国」と向き合っている。
ちなみに、韓国には「クジラの喧嘩にエビの背中が裂ける」ということわざがある。
クジラ(強国)の争いにエビ(韓国)が巻き込まれ、大きなダメージを負うという意味だ。
韓国が経験した苦難の歴史がよく表れている。


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