8月27日、日本の歴史をふり返ると、鎌倉時代には御成敗式目が制定され、江戸時代には宝暦事件が起きている。
どちらも、幕府と朝廷、将軍と天皇の関係を考えるうえで興味深い出来事だ。
以前、日本に住むアメリカ人から、こんな質問をされたことがある。
「江戸時代、将軍が全国を支配していたんだろ? じゃあ、天皇は何をしていたんだ?」
江戸時代、将軍には最大の実力(武力)があり、天皇には最高の権威があった。
だから、幕府は強大な軍事力をもっていても、天皇を倒すことはしなかった。
そこには、武家政権が抱えていた「独特の弱点」があったのだ。
「徳川の平和」を実現させたもの
天皇から将軍(征夷大将軍)に任命されて、徳川家康が1603年に江戸幕府を開く。
その後、1615年の「大坂夏の陣」で豊臣秀頼を自害に追い込み、江戸幕府の支配を揺るぎないものとした。
その後、幕府が10万以上の兵力で鎮圧した「島原の乱」以外に大きな戦乱はおこらず、江戸時代は約270年にわたって続くこととなる。
世界的に見ても、これほど長く平和な期間がつづくことは珍しい。そのため、「徳川の平和」とも呼ぶこともある。
わずか二代で滅亡した豊臣政権と長期政権を実現させた徳川家、どうして差がついたのか…。
「徳川の平和」の大きな要因に、幕府が周到なシステムを作り上げたことがある。
例えば、大名に江戸と領地を往復させる参勤交代の制度を整えたり、敵の侵攻を防ぐために大きな川に橋をかけることを禁止したりした。
ほかにも徳川幕府はさまざまな対策をおこない、反乱の芽を摘み取っていったのだ。

「天皇」をどうするか?
江戸時代は、「天皇→将軍→全国の大名・武士→民衆」と階層に分かれ、支配体制が確立していた。
幕府が恐れたのはこの階層を崩し、社会の秩序を乱すような思想だ。
たとえば、将軍や天皇より「ゴッド(神)」を尊重するキリスト教の思想は、徳川幕府にとってはとてもアブナイ。
「島原の乱」では多くのキリスト教徒が参加していたこともあって、幕府の危機感はさらに高まった。

そのため、幕府は「鎖国」体制をとり、キリスト教の社会への流入をふせいだ。
「徳川の平和」を維持するためには、思想の統制も不可欠だったのだ。
幕府と朝廷の関係
日本で本格的な武家政権は、12世紀末に源頼朝が開いた鎌倉幕府からはじまった。
その後、1221年の承久の乱で朝廷側が敗れ、朝廷に対する幕府の優位が決定的となる。

そして、1232年に北条泰時が御成敗式目を制定。
これは武士社会のためにつくられた法で、朝廷の律令とは別のルールだった。
鎌倉幕府は独自の法を定めたことで、朝廷からは切り離され、実質的に独立状態になったといえる。
しかし、武士を将軍に任命できるのは天皇しかいない。
そのため、どれだけ武家政権の権力が強くなっても、天皇を倒すことはなかった。あくまでも幕府は天皇の「臣下」という立場でいたわけだ。
この構図は江戸時代も同じだ。
本来、徳川家の立場は全国の大名と変わらない。しかし、天皇から認められることで、一大名から将軍となり、全国の大名や武士を統率する正統性を得ることができた。
そのため、幕府が天皇を倒すと、将軍としての権威の根拠まで失うことになる。
まさに自殺行為だ。
幕府は、天皇自身が政治の権利を取り戻そうとする動き、「天皇による倒幕」を特に警戒していたはずだ。
14世紀、後醍醐天皇は日本は天皇によって統治されるべきだと考え、鎌倉幕府を滅ぼして「親政」をはじめた。
しかし、その政治は長く続かず、足利尊氏らの武士が離反したことですぐに崩壊した。
徳川幕府にとっては、これを遠い過去の話にすることはできない。もし再び「天皇ご謀反」という事態が発生したら、徳川政権は重大な危機におちいることは確実だ。
そこで幕府は、朝廷を尊重しながらも、その政治的な活動を厳しく管理することにした。
1615年に「禁中並公家諸法度」を制定して天皇や公家の行動を厳しくしばり、天皇には学問などに専念させ、朝廷による政治介入の動きを防止した。
宝暦事件|「尊皇思想」への警戒
そんな幕府にとって、1758年に絶対に見過ごせない出来事がおこった。
神道学者の竹内式部が、天皇や公家に尊皇思想を教えていたことが明らかになったのだ。
もし「天皇こそ政治の中心である」という考えが広がると、将軍の政治的な立場を否定することにつながる可能性がある。
幕府の立場からしたら、竹内と関係した公家たちを厳しく処罰する必要があった。
この一連の出来事を「宝暦事件」という。
全国の日本人が天皇を尊ぶこと自体はいい。
しかし、尊皇思想は天皇の政治的権威を強め、幕府の支配を揺るがす力になりかねない。
天皇が政治的な野心をもち、「第二の後醍醐天皇」が現れたら、徳川幕府にとってはこれ以上ない悪夢だ。
将軍の立場はあくまでも「天皇の臣下」だ。
だから、島原の乱では武力で反幕府勢力を全滅させたが、天皇や公家を相手にそんなことは絶対にできない。
幕府が宝暦事件を「重大事案」ととらえ、天皇と尊皇思想の結びつきを警戒したのも当然だろう。

「尊皇思想」が倒幕運動へ
幕府は朝廷を「管理」したが、尊皇思想そのものは社会に残り続けていた。
幕末になると、これが「尊王攘夷」などの政治思想と結びつき、全国の武士や大名に大きな影響をあたえ、ついに倒幕運動へと発展していく。
徳川幕府はこの動きを止めることができず、1867年に徳川慶喜が朝廷に政権を返上す「大政奉還」をおこなった。
翌1868年に江戸城が無血開城され、徳川幕府は完全に消滅した。
天皇の権威を利用していた武家政権にとって、尊皇思想のあつかいは本当にむずかしかったのだ。

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