3月10日は、日本人なら忘れてはいけない「東京都平和の日」。
1945年のこの日、東京に米軍の爆撃機が飛来し、大量の焼夷弾を落として約10万人の死者を出した。一度の空襲で生まれた犠牲者数としては、これが人類史上最大だ。この悲劇を忘れないように、1990年に東京都が「東京都平和の日」を定めた。
さて、そんな3月10日、日本とフランスの歴史では次のような出来事があった。
平安時代の1016年のこの日、後一条天皇が8歳で即位し、藤原道長が摂政となった。
1793年には、フランス革命の最中、政治犯を審理するために革命裁判所がパリに設置された。
ということで、今回は日本の天皇とフランスの国王の違いについて書いていこう。
後一条天皇の母親は藤原道長の長女・藤原彰子(しょうし)だったため、道長は天皇のおじいちゃんになる。8歳の男の子といえばカブトムシ取りに夢中になる年ごろで、正しい判断をして日本を動かすことなんてできるわけがない。だから道長が「摂政」という地位について政治的権力を握った。
道長は次の三条天皇には次女を結婚させ、さらにその次の後一条天皇には三女を妻にさせた。このような政略結婚によって、道長は摂政であり続け、実質的に日本の最高実力者となる。彼が絶頂期にいたころ、得意げにこんな歌を詠んだという。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」
意訳:「この世は私のもので、何でも思いのままに動かすことができる。満月が欠けている部分がないように、私はパーフェクトな存在だ!」
日本の歴史で、「この世は私のためにある」と豪語したのは藤原道長と山本リンダさんだけと言われている。
天皇家としては、藤原家に政治的権利を奪われたままで納得するわけにはいかなかった。そこで現れた“秘策”が院政だ。1086年に白河天皇が譲位し、堀河天皇が即位すると、自身は白河上皇となって政治の実権を握り続けた。形式的には天皇の地位を譲っても、実質的には上皇として権力を維持することで藤原氏につけ入るスキを与えなかった。
この院政で天皇家が権力を奪還したと思ったら、早くも後白河上皇の時代である1160年代に、武家出身の平清盛に権力を奪われてしまう。彼は日本初の武家政権を成立させ(平氏政権)、その後、武士による統治は幕末まで約700年続くこととなる。
江戸時代には天皇が幕府による禁中並公家諸法度によって行動を大きく制限され、「鳥かご状態」となった。本来、将軍は天皇の家来だから、主君に対して「あなたはこうしていいなさい」と命令することはおかしい。しかし権威としては「天皇>将軍」でも、実力では「天皇<将軍」だったため、このような逆転現象が起こったのだ。

処刑される直前の王妃マリー・アントワネット
話は変わってフランスだ。
1793年3月10日、あらゆる反革命行動を裁くためパリに革命裁判所が設置された。この裁判所では上告や抗告が認められず、一度きりという厳しいもの。革命裁判によって数千人がギロチンで処刑され、その中には王妃マリー・アントワネットも含まれていた。公費乱用や背徳行為などで罪に問われた彼女は、すべて否定したものの認められず、1793年10月16日に処刑された。
ちなみに彼女の最後の言葉は、処刑台で死刑執行人の足を踏んでしまった際、「ごめんなさい、ムッシュウ。わざとではないんですよ」と謝罪したものとされる。夫で国王だったルイ16世は同年1月に処刑された。
マリー・アントワネットといえばデモ行進をする民衆に対して言った、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」というパワーワードが有名だ。しかし、この説は間違いで、彼女自身はそんな言葉を発していないらしい。
ただし、彼女は超上級国民で、パンよりケーキが高価なことすら知らなかった可能性は否定できない。当時、フランス貴族たちは税金をしぼり取り、国民を貧困状態に追いやりながら、自分たちは豪華な生活を送っていた。そのため、「革命」という特大ブーメランをくらってしまった。

京都御所の清涼殿
10年ほど前、アメリカ人と京都旅行へ行った際、御所と修学院離宮を訪れた。
修学院離宮は江戸時代に後水尾上皇によって築かれた離宮で、当時のままの建物や広大な庭園を見ることができる。御所も修学院離宮も宮内庁が管理しているため、見学するには事前に許可を得る必要があった(たぶん現在も)。
そのアメリカ人はフランスに留学したことがあり、ヴェルサイユ宮殿をはじめ、さまざまな貴族の宮殿を見たことがある。
アメリカにはない「王朝文化」に関心が高かった彼女は、京都御所と修学院離宮をとても楽しみにしていたものの、現物を見て深く失望した。どっちもあまりにも質素で、観光スポットとしての魅力を感じなかったから。特に修学院離宮では、後水尾の御座所だった寿月観について、「こんな簡単な建物に天皇がいたの? 召使いの休憩所にしか見えない」と驚いていた。
日本の歴史では、天皇はずっと政治的権利を奪われ、実質的には幕府のコントロール下にあり、ぜい沢な生活とは無縁だった。そのため、現代の外国人がヴェルサイユ宮殿のような華やかさを期待すると、ガッカリすることになる。
でも彼女は、天皇家はフランス王家とは違い、国民を犠牲にして優雅な暮らしをしていなかったことをよく理解できた。民衆の恨みを買わなかったから、革命が起きる理由はなく、王朝が廃止されることもなかった。
京都御所と修学院離宮のツマラナサを見て、アメリカ人はそんなことに納得した。

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