「絶対に負けられない戦いが、そこにはある」という言葉は、令和の現在ではスポーツの試合ぐらいにしか使えない。実際、今の日本にはそんな戦いはイラナイ。国民の命が左右されるような戦いなんて、ないほうがいいに決まっている。
日本の歴史においてそう言える戦いの一つが、1944年の10月下旬にフィリピンではじまった「レイテ沖海戦」だ。これは日本本土の1・4倍という広大な海域でおこなわれ、日米合わせて20万人以上の兵が参加し、ぼう大な数の兵器が使われたため、史上最大の海戦とも呼ばれている。
特に日本海軍は、「出し惜しみなし!」という勢いで艦隊を送り、総力戦で戦ったが敗北し、連合艦隊は壊滅状態となった。海軍にとって、レイテ沖海戦は持てる戦力を結集して挑んだ実質的には最後の決戦となり、敗北によって力を失い、その後は米軍とまともに戦うことができなかった。
太平洋戦争全体をみれば、日本はこの戦いを落としたことで敗戦が決定的となった。逆に米軍は、日本に対する「トドメ」に近い一撃を加えたことになる。

レイテ沖海戦で戦った戦艦長門
これで米軍は爆撃機で、日本本土を直接攻撃することが可能になる。日本は絶体絶命におちいり、東條英機はその責任を取って総理大臣を辞職した。
この戦いの前、日本海軍はマリアナ海戦で敗北し、大きなダメージを受けていた。日本は、国を守るために「絶対国防圏」を設定していたが、マリアナ海戦で敗れて米軍にサイパン島を奪われ、そのラインが突破されてしまった。
これによって、米軍は爆撃機を使って日本本土を直接攻撃できるようになる。日本は絶体絶命の状態に追い込まれ、東條英機はその責任を取って総理大臣を辞職した。
このころ米内海軍大臣が戦局について「今年いっぱい保てるか?」とたずねると、豊田連合艦隊司令長官は「極めて困難だろう」と答えている。これからもわかるように、レイテ沖海戦の前に日本政府内にはすでに敗戦ムードが漂っていた。それでも、誰も終戦を口にすることができず、戦いはズルズルと長引いてしまった。
日本軍は、敵の空母や輸送船を「必殺」し、敵の上陸部隊を「必滅」するという決死の覚悟で戦ったが、その運命は自分たちに訪れた。
レイテ沖海戦を含むレイテ島の戦いに敗れたことのツケはあまりにも大きい。米軍にフィリピンを奪われたことで、東南アジアから日本本土への補給路が断たれ、戦争継続に必要な石油などの物資を輸送することが不可能になった(ゼロではなかったと思うが)。
また、米軍はフィリピンを拠点に、台湾や沖縄への進攻も容易になり、日本にとっては最悪のシナリオである「本土上陸」が現実味を帯びてきた。だからこそ、絶対に米軍をフィリピンに上陸させてはいけなかったが、日本軍はそれを阻止できなかった。
もともと「今年いっぱいもつか?」「いや〜、厳しいでしょう」という状況で、レイテ沖海戦に負けて連合艦隊を失ったのだから、もう降伏は必然の未来となった。
参考:「失敗の本質」 (ダイヤモンド社. Kindle 版) 戸部 良一; 寺本 義也; 鎌田 伸一; 杉之尾 孝生; 村井 友秀; 野中 郁次郎

米軍の攻撃を受けて黒煙が上がる戦艦武蔵(右)と、旋回している戦艦大和(左)

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