長い「鎖国」という眠りから覚めて、日本は西洋列強を参考に国内改革を進め、アジア初の近代国家となった。これから、そのワケを探っていこう。
日本だけの文化「元号」
世界中で日本にしかない文化、それが元号。元号の制度は古代中国ではじまり、朝鮮半島、ベトナム、日本へ広がって一時は東アジアの共通文化になったが、今でもその制度が残っているのは日本しかない。
日本に住む外国人にとっては、元号と西暦があると書類に記入するときに面倒くさくなる。でも、日本に20年近く住んでいるアメリカ人は、スマホの登場によってその苦労はほとんどなくなったと言う。また、ある中国人は「母国で無くなった文化が、今でも日本に残っているのは嬉しいですね〜」と喜んでいた。
いまや元号は日本だけの貴重な文化となっている。
日本での「一世一元の制」のはじまり
1868年10月23日、慶応から明治に改元された。同時に、天皇1人につき元号を一つ定めるという「一世一元の制」がスタートした。
明治・大正・昭和・平成・令和という元号の移り変わりは、この制度にもとづいている。しかし、明治時代より前は、縁起の良い(または不吉な)出来事が起きると、それをきっかけにサクッと元号を変えていたのだ。
だから、孝明天皇の時代には元号が7つもあったし、南条文雄のように、安政・万延…大
正・昭和と人生で9つの改元を体験した人もいた。言ってみれば「一世九元」だ。
手作業で西暦から変換していた昭和だったら、履歴書などの書類を書いている最中に、きっと3人に1人は叫び声を上げて破り捨てていた。
中国での「一世一元の制」のはじまり
本家の中国でも元号はコロコロ変わっていたが、1368年に朱元璋が皇帝に即位して明王朝を始めたさい、一世一元の制が採用され、「1皇帝=1元号」というシステムが次の清王朝にも引き継がれた。1911年に辛亥革命がはじまり、清朝が倒されて皇帝が消えると、元号の制度も廃止された。
ベトナムでは、1802年に阮朝がはじまると同時に、一世一元の制もスタートした。
朝鮮では、中国から独立した翌年の1896年から一世一元の制が実施され、1910年に日本に併合されるまでつづいた。
独裁者にはならなかった明治天皇
朱元璋は行政・軍事・外交などを掌握し、独裁的な政治体制を確立した皇帝として知られている。彼が「一世一元の制」をはじめた理由には、権力を自分に集中させ、中国という国家を自分のものにするため、という意図があったはず。
日本が一世一元の制を採用した理由にも、それによって天皇の権威を高め、国民をまとめるという目的があった。
明治日本のキーワードは「中央集権」。江戸時代、日本には数百もあった国(藩)があったから、一度それをすべて廃止し、権力を中央(天皇)に集めたほうが明治政府にとっては都合が良かった。
その前段階として、幕末に将軍が政治の権利を天皇へ返上し、明治時代になると全国の大名に領地と人民を天皇に返上した。つまり、大政奉還と版籍奉還という、天皇への2つの「お返し(奉還)」があったのだ。
「カエサル(皇帝)のものはカエサルに」で、天皇を頂点にして日本全体が一元化(中央集権化)されたことで、政府は政治がやりやすくなった。
これは、政府が天皇の権威を利用したカタチになるが、天皇は気にしなかっただろう。明治天皇は中国皇帝のように、国を私物化することはなかったから。憲法を自分の上位にあると認め、憲法に従って行動し、政治に私情や口をはさむことを控えていた。
権力があっても使わない君主というのはめずらしい。
アメリカ出身の日本学者ドナルド・キーン氏がヨーロッパの皇帝と比較して、軍の総司令官でもあった明治天皇についてこう述べている。
総司令官である大元帥だったにもかかわらず、一度の戦争の作戦に干渉したことがないのです。ヨーロッパの皇帝などはしょっちゅうやっています。自分たちの好き嫌いで、この人は連隊長にしろといった命令を出していました。
「明治天皇を語る (新潮新書) ドナルド・キーン」
対照的なのは西太后で、彼女は国の金を自分のために使いまくって国を傾けた。
明治政府は権力を天皇に集中させても、明治天皇はそれを好き勝手に使うような独裁者にはならなかった。日本がアジア初の近代国家になった理由はそこにある。

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