上の像の人物は朝鮮王朝の第4代国王・世宗(セジョン)で、現代の韓国でとても尊敬されている。
韓国人に彼について聞くと、「世宗は15世紀に、民族文字であるハングル(当時は訓民正音)を制定した偉大な王ですヨ」といった答えが返ってくるはずだ。
彼は歴代の朝鮮国王の中でも特別な存在で、「世宗大王」と呼ばれている。
しかし、現在の韓国で、これから紹介する彼の“闇歴史”を知っている人はきっと少ない。
1419年のきょう6月19日(旧暦)、「応永の外寇」で朝鮮軍が巨済島を出航し、対馬へ向かった。
当時、朝鮮は日本の海賊集団である倭寇に苦しめられていて、上王(太宗)の意向を受け、世宗が倭寇の拠点だった対馬を攻略することとなる。
200隻以上の船に17,285人の兵士を乗せた朝鮮軍は、翌日に対馬へ到着するとさっそく攻撃を開始したが、対馬側の激しい抵抗にあい、4人の将校と、朝鮮の記録では180人の兵士(日本の記録では2500人~3700人)が戦死した。
朝鮮軍は逃走用の船まで焼かれ、屈辱的な敗北を喫し母国へ撤退した。
朝鮮はすぐにラウンド2(再遠征)を考えたが、兵士たちは戦意を失い、船の損害も出ていたため、結局実現しなかった。
対馬を攻撃された日本にとっては、朝鮮側の意図がよく分からない。
そこで朝鮮政府は宋 希璟(そう きけい)を使者として日本へ送り、事情を説明することにした。
しかし、将軍・足利義持は朝鮮に不信感を持っていて、京都へ来た宋 希璟には食事を出さないなどの塩対応をし、約50日後にやっと会うことを許可する。
宋は世宗の親書を渡し、あの遠征は倭寇を討つことが目的で、決して日本と敵対するつもりはありませんと熱心に説明すると、義持はそれを受け入れた。
これでミッション・コンプリート。
彼は「朝鮮と日本は一つの家となった」と喜び、朝鮮へ帰国した。
このとき世宗が日本に倭寇の対策を依頼し、幕府がこれに応じ、九州の大名が厳しく取り締まった。
ムチで罰することに失敗した朝鮮は、次にアメを渡すことにして、対馬の人たちに官職を与えたり、米を贈ったりして友好的に接するようになる。
こうして倭寇は衰退していった。
現代の韓国で、世宗が対馬に攻撃をしかけたが、返り討ちにされたという史実を知る人はきっと少ない。
日本人から見た韓国人 130年前と変わらない“辛いもの”好き
朝鮮王朝実録にも対馬征伐が成功しなかったことが記録されていますが、後世の韓国人が成功したかのように歪曲しています。しかし、世宗が間違った点は対馬征伐の失敗というよりは、自分の民を奴婢にする法を制定したことです。世宗は奴婢從母法を実施し、その後、朝鮮の民の30~40%が奴婢になる結果となり、奴婢の人権を抹殺しました。奴婢は法の保護を全く受けることができず、家畜のような待遇を受けました。奴婢制は1894年に廃止されますが、実際に奴婢が完全に近代市民になるようにしたのは、日本が朝鮮を併合したその時代でした。
朝鮮王朝実録に記録はあると思いますが、私が見た韓国の歴史教科書にこの出来事の記述はありませんでした。だから、知っている韓国人は少ないと思います。
>自分の民を奴婢にする法を制定したことです。
ハングルを制定した彼は偉大でしたが、これは間違っていました。これも日本語のウィキペデアには書いてありますが、韓国の歴史教科書で見た記憶がありません。