ヒトの体には高い機能があって、悪い微生物が侵入すると、それを察知して排除するようになっている。この「生体防御」によって、病気にならなかったり、なっても自然に治癒したりする。
日本の歴史にも、悪い意味でそんな「防御機能」が現れた時期がある。アメリカの軍人ペリーがやってきて幕府に開国を要求したころから、日本では外国人がやってくると、国を憂う攘夷派の志士たちが拒絶反応をおこし、外国人を「日本をむしばむ悪性ウイルス」のように考え、刀で強制排除しようとした。
たとえば、イギリス公使館が東禅寺に設置されると、過激な攘夷派の浪士が「夷狄(野蛮人)である外人に神州日本が穢された」と怒り、1861年にイギリス人を斬り殺そうとして寺へ侵入し、警備の侍と戦闘になった。
この東禅寺事件でイギリスの外交官がケガを負い、5人の日本人が死亡した。翌年62年には警備の者が襲撃し、2人のイギリス兵を斬殺した。
江戸幕府にとっては外国人を襲撃する武士こそが、内側から生まれた「悪性ウイルス」になる。

攘夷派の志士に、ムチを持って応戦するイギリス人(第一次東禅寺事件)。
1868年に戊辰戦争がはじまり、江戸幕府が滅亡して明治政府が樹立されたころには、完全に社会が変わって、「侍テロリスト」たちは姿を消した。しかし、いつの時代にも、時代の変化についていけない人たちがいる。
明治政府は四民平等を発表し、武士の身分を廃止して彼らを「士族」とし、1873年には国民の兵役義務を定めた徴兵令をだす。
しかし、武士だった人たちが頭や心をすぐにアップデートすることは難しい。士族の中には江戸時代と同じ武士のメンタルを持っていて、自分たちを「邪魔者」扱いする政府に恨みを抱く者が多かった。同時に、彼らは西洋化される日本社会を嫌い、外国人を憎んでいた。
そんな不満、怒り、嫌悪、憎悪といった悪感情が合わさって頂点に達し、1874年に江藤新平らをリーダーとして初の士族の反乱である「佐賀の乱」がぼっ発。士族にとっては、この明治政府への反乱が「終わりの始まり」となる。
1876年(明治9年)3月、明治政府から廃刀令が出されると士族たちは激怒し、その年の10月24日に神風連の乱(熊本)、27日には秋月の乱(福岡)、そして28日には萩の乱(山口)といった士族たちの反乱が連鎖的に発生した。
この中の神風連の人たちは、神州(日本)の空にキリシタンの針金(電線)があることを「汚らわしい」と考え、その下を通るときは頭に扇子をかざして歩いたというから、精神的には攘夷派の志士とあまり変わっていない。
佐賀の乱からはじまった士族による明治政府への反乱で、「ラスボス」的なものが1877年に西郷隆盛を“総大将”とする西南戦争だ。明治初期にあった士族反乱ではこれが最大のもので、日本最後の内戦となる。明治政府は軍を総動員してこれを鎮圧したことで、もう政府に歯向かう士族はいなくなった。
幕末の攘夷派志士や明治初期に反乱を起こした士族たちは、価値観や考え方を時代に合わせることができなかったが、彼らの国を想う気持ちは本物でそれ自体を否定することはできない。しかし、やり方が悪かった。徳川幕府や明治政府にとっては、彼らの存在は日本の存続を危険にさせる「悪いウイルス」と同じだったから、排除しなければならなかった。
西南戦争の後、武力で国を変えようとする者は消え、言葉の力で国を動かそうとする人たちが登場。板垣退助らを中心に国会開設や憲法制定を求める自由民権運動が盛んになり、日本は新しい時代を迎え、それが現在まで続いている。

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