日本がどんな国か知りたい外国人には、よく下の年表を使って説明する。一番下の赤いラインが日本だ。

世界の歴史は、異民族に支配されて国が滅亡したり、国内で革命が起きて王朝が替わったりすることの繰り返し。しかし、日本だけはそれを一度も経験したことがない。だから、日本は現在に続く「世界最古の国」と呼ばれることがある。
ただし、危機を迎えたことは何度かある。これから、幕末〜明治の日本がどのようにそのピンチを乗り越えたかをみていこう。
マインドセット
最近、とくにビジネスの世界で「マインドセット(mindset)」という言葉がよく使われるようになった。これは物事や状況をどう理解し、反応するかという「心理状態」や「心がまえ」を指す。
ポジティブなマインドセットを持つ人なら、困難な状況に直面しても自分を成長させる良い機会と前向きに捉えるだろうし、ネガティブなマインドセットの持ち主なら、悲観的になって挑戦しない可能性が高い。
時代が変わっても企業が成長するには、社員一人ひとりが社会の変化に適切に対応できるマインドセットを持つ必要があり、さまざまな企業で教育がおこなわれている。
日本の歴史で壮大な「マインドセット教育」をしたのが福沢諭吉だ。
諭吉の不安
福沢諭吉の弟子、井上角五郎が書いた『福澤諭吉先生と金玉均について』によると、明治初期、福沢は「どうしたら日本の国が独立できるであろうか」、「日本という国がいつまでも日本という名を保って立ち行くにはどうすればいいか」と口ぐせのように言っていたという。
当時、副島種臣、大隈重信、伊藤博文、井上馨といった明治日本を築いた偉人たちも、日本が欧米列強に支配されることに危機感を抱き、毎日のように集まり、日本が独立を維持するために必要なことについて話し合っていた。
日本人のマインドセットを変える必要性
福沢諭吉は、日本を近代化国家にするためには、一部のエリートだけでなく、国民全体が古い封建的な価値観を捨てて、新しい時代に応じた価値観や考え方を身につけることが重要だと考えた。つまり、国民全体のマインドセットを江戸時代のものから、明治時代にバージョンアップさせようとした。
福沢が重視したのは、日本人が「自由」「独立」「平等」といった新しい価値観を持ち、自主独立の精神をもつこと。この3つの概念は江戸時代の日本では必要なかったが、明治日本を生き抜くためには不可欠なものだ。
そのために福沢は『学問のすゝめ』を書き、これらの新しい価値観を国民に広く伝えようとした。
江戸時代なら、親の仕事をそのまま子供が引き継ぎ、お上の言うことに従って生きていればよかった。しかし、身分制度が崩壊した明治日本では、国家を構成する国民一人ひとりが自らの意志と責任を持つ「自主独立」の価値観を持ち、能力を活かすことが必要だった。
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という有名な書き出しは、身分制度からの解放や平等を表し、それに伴う「独立」の精神を説くものであった。
国民が他力本願のままでいれば、日本が独立を維持し、国際社会で西洋列強と渡り合うことは不可能だっただろう。
福沢をはじめ、さまざまな知識人が『明六雑誌』という雑誌を発行するなどして啓蒙活動をおこない、民衆に「個人」や「国民」の意識を身につけさせようと精力的に活動した。
19世紀、日本は近代国家になり、朝鮮が失敗した差は“危機意識”
独立を維持した日本
結果から言えば、明治日本は欧米の植民地になることはなく、独立を守り通すことができた。井上角五郎が福沢諭吉が不安に思っていたころを振り返って、こう言っている。
今日、諸君は、「どうしたら日本が独立出来ようか」ということを心配するというと不思議にお考えになるでしょうが、その当時はそういうことが真面目に論じられていたのです。
全日本人が「自由・独立・平等」という新しい価値観をもったとは思わないが、多くの人が新しい時代に対応できる精神を身につけた。そうでなければ、日本が急速に近代化を実現し、アジア初の近代国家になることはできなかったはずだ。
日本が現在まで独立を守ることができた要因には、福沢諭吉らが日本人のマインドセットを変えたことがある。

コメント
コメント一覧 (2件)
福沢諭吉と一種の師弟関係だった金玉均は、儒教の性理学を勉強した伝統的な朝鮮の学者でしたが、国家の近代化の重要性を痛感し、甲申政變を起こしました。しかし痛恨のことに、3日天下で終わってしまい、朝鮮の近代化は不可能になりました。その結果、朝鮮の近代化を期待していた福沢諭吉は、日本の「脱亜論」、つまり「脱亜入欧」を主張し、中国、朝鮮との連帯で世界帝国主義から東洋の平和を守るという考えを捨てました。若干の葛藤はありましたが、日本は近代化に成功し、朝鮮は失敗して日本に併合された理由は、根本的に両国のエリートや一般国民の意識水準で大きな差があったからです。
上記の本文にもあるように、日本には福沢の他にも多くの先覚者がいましたが、朝鮮には若くして金玉均とその仲間たち、ごく一部しかいませんでした。朝鮮のエリートという人たちは、孔子、朱子の名分論的な古い学問で、自分たちの権力を維持する人間たちでした。時代の流れを全く知らない人たちでした。
「変わらずに生き残るために、変わらないといけない」と言います。
19世紀、国家が独立を守って生き残るためには、国内改革をしないといけませんでした。朝鮮には金玉均などの開化派もいたのですが、朝鮮政府は変わろうとしないで、滅びました。