今の日本とタイには地理的、政治的、そして宗教的な共通点がある。
どちらもアジアにあって、天皇や国王という「君主」がいて、社会では仏教の影響が強いため、日本に親しみを感じるというタイ人は多い。
そのほかにも、日泰では歴史的にも重大な一致があるのだ。
激動の帝国主義を生き抜いた日本とタイ
19世紀後半の世界をひとことで表すなら「弱肉強食」で、力のない国は強国に支配され、アフリカや中東、南アジアの国々は西洋列強の植民地になっていった。
そんな厳しい帝国主義の時代に、独立を守りきって近代化に成功した珍しい国が日本とタイ。
つまり、両国には「他民族に支配されず、植民地にならなかった」という輝かしい共通点があるのだ。
しかし、その中身には違いがあって、両国の「らしさ」が表れていた。
ここでは、近代化の象徴である「鉄道建設」を取り上げ、日本とタイの近代化の違いをみていこう。
日本人の強みは「学習能力」の高さ
歴史的に見て、日本人の「ストロングポイント」は学習能力の高さにある。
奈良・平安時代、朝廷は世界的な文明国だった中国に優秀な人材を送り、先進的な知識や技術、制度を学ばせていた。
帰国後、彼らが隋や唐で身につけたものを活かしたことで、社会や政治が大きく発展した。
たとえば、中国の「律(刑法)」と「令(行政法・民法)」を参考にして大宝律令を完成させ、天皇を中心とした中央集権国家を築いた。
これは、大ざっぱに言えば「法(ルール)」で国を統治するようなもので、画期的なことだった。
中国をのぞけば、日本の律令制度は東アジアの中でもっとも完成度が高かっただろう。
日本の近代化の特徴
「お雇い外国人」に学ぶ
日本人はすぐれた国に学び、その良さを吸収して自国を強く大きくすることが得意だった。そうした学習能力の高さが、存分に発揮されたのが明治時代だ。
当時、日本は欧米をモデルに近代化を進めるため、政府は高給を払って多くの「お雇い外国人」を採用した。
それは誰でも歴史の授業で習ったはず。
しかし、その「対価」を知っている人は多くない。
右大臣の岩倉具視が月に600円の給料を受け取っていた時代に、灯台建設を指揮したイギリス出身の土木技術者ヘンリー・ブラントンには、500円が支払われていた。
明治の日本は貧しかったが、進んだ知識や技術を導入し、国を近代化させるためには必要な出費だったのだ。
「日本人のための日本」へ
しかし、彼らはあくまで「教師」や「アドバイザー」という位置づけで、日本人は猛スピードで技術を吸収していく。
そして、日本人の技術者が育つと、政府はお雇い外国人との契約を次々と打ち切った。
その一例が鉄道事業だ。
日本の鉄道開発はイギリス人のモレルが主導し、1872年(明治5年)に新橋~横浜の間で開通した。
当時の横浜駅は、とてもインターナショナルな空間だったらしい。
1878年に日本を訪れたイギリスの旅行作家、イザベラ・バードの記録によると、横浜駅には中国人の切符売りがいて、車掌と機関手はイギリス人が担当し、それ以外の駅員は日本人だった。

しかし、1879年に日本人の運転士が初めて乗務し、翌年には全列車で日本人が列車を運転するようになった。
日本人だけで鉄道の建設や運営ができるようになったころには、西洋人は姿を消したはずだ。
明治時代にアメリカからシドモアがやってきたころには、そんな「新陳代謝」がかなり進んでいた。
海外で教育訓練された日本の青年が、外国の教師や監督に代わって指導するため母国へ帰っています。
都市ごとに政府省庁や公共事業のお雇い外人の必要性は減少しています。今や‘日本人のための日本’は当たり前のスローガンです。「シドモア日本紀行 講談社学術文庫」

エリザ・シドモア(1856年〜1928年)
イギリス人のモレルは鉄道技師長という立場で、鉄道建設に必要なアドバイスをしていたが、全体の主導権を握っていたのは日本だ。
鉄道事業を管轄していた工部省の初代長官は伊藤博文で、日本が主体的に鉄道事業を進めていたことがわかる。
また、鉄道発展に貢献し、のちに「鉄道の父」と呼ばれるようになった井上勝も、日本人としてぜひ覚えておいてほしい。
タイの近代化の特徴
日本では明治天皇、タイではラーマ5世の時代に近代化が進められた。
どちらも帝国主義の時代に君主となった人物で、「運命的」と言っていいほど似ている。

日本もタイも独立を守るために明治維新とチャクリー改革をおこない、近代国家へ生まれ変わることに成功した。
しかし、そのアプローチは違っていた。日本は自分たちで近代化を進め、タイはおもに外国の力を利用してそれを推進したのだ。
以前、日本に住んでいたタイ人から、「最近、日本語の“オマカセ”が流行っている」という話を聞いた。
レストランでメニュー表からオーダーするのではなく、シェフに「OMAKASE」と言って、料理を作ってもらう。
そんなスタイルが日本っぽくて、タイ人のとくに若者にウケた時期があった。

近代化でも、タイ人は「おまかせ」スタイルを選択した。
タイ(シャム)も西洋人を雇って社会を発展させていたが、日本とは「扱い」が違っていた。
外国人は単なるアドバイザーではなく、政府高官や局長に任命され、大きな行政権力を持たされることがあった。
たとえば、当時の財政顧問はイギリス人のウィリアムソンという人物だ。
明治政府なら、外国人に国家の財政を管理させることは考えられなかっただろう。
タイで1890年に、王立鉄道局が設立されたさい、初代局長にはドイツ人技師のカール・ベートゲが就任した。
鉄道事業のトップを外国人にゆだねることも、日本にはなかった。
もちろん、タイでも最終的な決定権は国王が握っていたが、日本に比べると、外国人に依存していた側面が多い。
言い換えれば、外国人をうまく活用していた。
先ほどのタイ人はそんな状態を「おまかせ」と表現したのだ。
したたかな外交戦略|タイが外国人にトップをまかせた理由
実は、タイが西洋人に高い地位を与え、大きな権限を持たせたことには、それなりのワケがある。
これは、国を守るための「外交戦略」でもあった。
当時のタイは、西をイギリス、東をフランスという強大な植民地帝国に挟まれ、危機的状況にあった。
タイ人の知識や技術では、鉄道事業を実現することはできなかったため、どうしても西洋人の助けが必要だった。
しかし、もしインフラの要である鉄道のトップにイギリス人やフランス人を就任させたら、タイはどうなっていたか?国境を越えて軍隊を引き入れられ、国を乗っ取られてしまう可能性もあっただろう。
そこでタイは、あえて東南アジアに領土的な野心の少ない「ドイツ人」を局長に指名したと考えられる。
つまり、タイは列強のパワーバランスを計算し、さまざまな省庁で西洋人を採用することで、うまく均衡を保っていた。
ポジティブに言えば、主体的に「おまかせ」戦略をおこない、外国人を使いこなして近代化を達成し、独立を守ることにつながったのだ。
タイ人は昔から、そういうことが得意だ。アユタヤ王朝時代、日本人の山田長政を地方長官に任命したり、ギリシャ出身のコンスタンティン・フォールコンを政府の最高顧問にしたりしたことがある。

近代化に表れた日泰の国民性
日本もタイもやり方とゴールは同じで、「お雇い外国人」の力を借りて国を近代化した。
しかし詳しく見ていくと、その細部は違う。
日本人は学習能力の高さをいかし、すぐにその座を外国人から奪っていって「日本人のための日本」を実現した。
一方、タイ人は外国人に依存しているようで、実際にはうまくコントロールし、「タイ人のためのタイ」を現実にした。
両国の近代化には、国民性が表れている。

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